邪馬台国 解明されていない世界の謎と不思議

謎・不思議

 

「魏志倭人伝」に記された邪馬台国がどこにあるのかについては、江戸時代から論争が続いている。その中心が、畿内説と九州説である。

 

佐賀県にある弥生時代の遺跡、吉野ヶ里遺跡が発見されたことにより、「邪馬台国は九州にあった」という結論が下されると考えられたが、いまだに邪馬台国がどこにあったのかは判明していない。


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邪馬台国とは

 

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弥生時代前期から後期にかけて、和国は100以上の国が存在していた。これらの国は何十年にもわたって、互いに抗争を繰り返していた。

 

この抗争は卑弥呼という女王の登場によって終わりを迎えることになる。そして、この卑弥呼が率いていた国こそ邪馬台国である。邪馬台国を頂点に、30カ国ほどの国が生まれた。

 

邪馬台国という名は、日本人であればほとんどの人が知っているが、実はその実態を示す文献などはほとんど存在せず、遺跡と「魏志倭人伝」からしかその姿を見ることはできない。

 

「魏志倭人伝」の記述から、邪馬台国は身分がはっきりと差別化された階級社会であったといわれている。

 

一般庶民は「下戸」と呼ばれ、農民や兵士のほとんどがこの階層に属していた。その下には「奴婢」「生口」と呼ばれる奴隷階級も存在していた。

 

奴隷たちは、農地開拓、土木建設の労働力として重宝されていたと考えられている。権力は王族が握っており、その中でも女王の卑弥呼は強大な権力を手にしていた。

 

卑弥呼はほとんど人前に姿を見せず、政治は弟が行っていた。卑弥呼がいる宮室は常時警護されており、卑弥呼の身の回りの世話をする下女は1000人ほどいたと「魏志倭人伝」には書かれている。

 

このことからも、一般市民と王族の身分の違いがはっきりとわかる。また交易も盛んに行っており、渡来人の技術者を優遇することで国の生産力を向上させ、国の経済を発展させた。

 


 

 

邪馬台国はどこにあった?

 

「邪馬台国はどこにあったのか」、この論争は今でも続いている。中でも有名なのが、「畿内説」と「九州説」である。

 

邪馬台国のことが記された「魏志倭人伝」には、邪馬台国の所在については記されておらず、特徴などしか記されていない。

 

それゆえに、邪馬台国の所在はいまだに判明しておらず、論争が続いている。この2つの説はいったいどのようなものなのだろうか。


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「畿内説」

 

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畿内説は、その名のとおり邪馬台国が近畿地方にあったという説である。根拠としては、大和と三角縁神獣鏡である。

 

大和とは現在の奈良県を指す場所で、この地方には弥生時代以前から強力な王朝があったと考えられている。

 

この王朝こそが邪馬台国のきげんであり、読み方も類似していることから、邪馬台国は畿内にあったのではないかというのがひとつの根拠である。

 

そして三角縁神獣鏡については、この鏡は近畿地方を中心に分布しており、これこそ「魏志倭人伝」に記されている「中国の天子から卑弥呼に送られた銅鏡百枚」の鏡である。

 

そして、この鏡を用いて卑弥呼は儀式・祈祷・呪術を行っていたという。

 

「畿内説」では主にこの2つを根拠にしている。特に三角縁神獣鏡の存在は大きい。しかし、研究が進むにつれこの2つの根拠は揺らぐことになった。

 

大和という名称は、弥生時代以前から用いられていたという証拠は存在せず、大和王朝の存在も推測の域を出ない。

 

「魏志倭人伝」に記述されている邪馬台国への道のりに従った場合、どうやっても近畿地方にはたどり着かないことも判明している。

 

また、三角縁神獣鏡に関しても、三角縁神獣鏡は中国製ではないことが判明しており、これでは「中国の天子から卑弥呼に送られた銅鏡百枚」という記述と一致しない。

 

邪馬台国畿内説は、邪馬台国が近畿地方にあったということを証明するには根拠が乏しい。では、もうひとつの「九州説」ならば邪馬台国の所在を明らかにできるのだろうか?

 


 

 

「九州説」

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「畿内説」の根拠が崩れ、吉野ヶ里遺跡が発見されたことで邪馬台国は九州にあったと結論付けられると考えられたが、そうではなかった。

 

「九州説」では邪馬台国は筑後山門にあるというものが代表的である。しかし、「畿内説」と同様に、「魏志倭人」記された道のりでは、とうてい筑後山門にはたどり着かない。

 

また、考古学的出土分布の点でも問題がある。鏡・銅剣・銅矛・ガラス製品・絹など、どの出土品目を取ってみても、その中心は九州地方ではない。

 

吉野ヶ里遺跡果たしかに弥生時代の遺跡であり、そこの国が存在していたことを示している。しかし、その国が邪馬台国であったという証拠はどこにも存在していない。

 

また、吉野ヶ里遺跡は確かに弥生時代の遺跡であり、その地方に国が存在していた証拠である。

 


 

 

いまだに論争は続く

 

邪馬台国がどこにあったのか、という論争はいまでもなされている。その中でも有名なのが「畿内説」と「九州説」である。

 

あくまでこの二つが有名なだけで、邪馬台国がどちらかにあったと決まったわけではない。もしかしたらもっと別のところにあったのかもしれない。

 

邪馬台国の所在は、邪馬台国について記している「魏志倭人伝」のさらなる研究、そして弥生時代の遺跡の発掘・研究が進むことで、いずれ判明するだろう。

 

世界には、まだまだ解明できない謎や不思議なことがたくさんあるのかもしれません・・・・・

解明されていない世界の謎・不思議まとめ


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2件のコメント

  • sokaina

    邪馬台国は畿内三輪を中心とした場所にあったと思う。理由は、邪馬台は大和(やまと)と同音であること。すなわち邪馬台国は大和国と同一であること。三輪周辺には大王墓にふさわしい大規模な古い古墳が多数あること。また纏向などの大規模な遺跡があること。これらは3世紀代の遺物であること。魏の皇帝が景初の時代に倭の女王卑弥呼へ鏡を送ったという史実と日本で発見された古代鏡に景初の年号を記した鏡が畿内を中心として出土していることで史実と考古資料が一致していること。

  • 高橋建次

    邪馬台国は吉野ケ里遺跡にあり、卑弥呼は畿内と両方にあり出張で畿内に出かけた時に正妻の内乱が起きる。1万5000人が亡くなる。卑弥呼の主人が内乱で殺される。卑弥呼は桜井の箸墓古墳である。卑弥呼の子供と正妻の子供は結婚して子供が男女二人生まれるが女の子は殺されるが男の子は隠れて助かる。後に中国の使者になる。その墓は桜井にある石塚古墳である。纒向石塚古墳がそうである。だから邪馬台国は吉野ケ里と大和にあったのである。

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